客観性に配慮した印象を与えつつ主観を表現する「私なら」という言葉。
使用法として考えられるのは,他人の言動を憶測するための思考過程,他人から「あなたならどうする?」と尋ねられた時の返答,自分の事実を語るとき。
他人から聞かれた場合は良いだろう。そもそも自己主張が入っていない上,相手がそれを求めているのだから。単に自分の事実を語るだけなら,これもそれほど問題にならないだろう。
気をつけるべきなのは憶測に基づく「私なら」だ。
人は皆自らのパラダイムに縛られて生きているし,誰も他人になって考えることはできない。「私なら」この場合こう考える,こういう行動を取るのは「私なら」こういう場合だ,そんな風に他人の言動の意味を憶測する思考過程で引き合いに出せるのは自分だけ。
だが,これは非常に危険な思考方法であることを肝に銘ずるべきである。相手は自分ではない。他人に対して「私なら」を口にする人は,この当然のことを,分かっているつもりで分かっていない。だから平気で口に出来る。
それは,他人から「私なら」と言われたときのことを思い出してみればよくわかる。彼・彼女の言う「私なら」の前提は何一つ自分に当てはまらず,常に根本的に見当違いだ。どんなに近しい間柄の相手であってもそれは変わらない。
「私なら」で始まった思考で正しく他人の言動を推測したり批判したり規定したりできることなどまずあり得ない。
他人を知りたければ,「私なら」を捨てて,無心に聞くことから始めなければならないのだ。
「私なら」は,知ることを拒否した主観の押し付けでしかない。しかも,「私なら」とは異なる言動をとる相手を多かれ少なかれ非難している。
「私なら」はせめて自分の頭の中にとどめておくべきもので,口に出すべきものではない。
私も今まで「私なら」を様々な場面で使ってきた。
それらを思い返してみても,「私なら」が相手に対して無礼ではなかったことなど思いつかない。
不遜にも「私なら」などと口にするような時はいつも,自分の方が正しい,自分の考えが間違っている筈がないという奢りを心の奥底のどこかに抱いていたように思う。
相手を本当に尊重しているならば,「私なら」なんて自己主張は必要ない。ただ耳を傾ければよい。
「私なら」に要注意。
自分は言わないように。人に言われても惑わされないように。