六月の雪

緋色は雪の涙なり

Learn as if you will live forever, Live as if you will die tomorrow.
 
 
  

プラネタリウム

 プラネタリウムも存在しない田舎で生まれ育ったため,子供の頃,プラネタリウムは憧れの存在だった。また,その後もかなり長い間,プラネタリウムを見に行くことは楽しい娯楽の一つだった。
 静かな音楽と共にプラネタリウムの太陽が沈んでいくのを見ると,わくわくしたものだ。

 だが,ここ10年そこいらの間に気がついた。今となっては,別に私,プラネタリウムに興味ないのだな,と。昔わくわくしていたのも,プラネタリウムが楽しみだったのではなく,プラネタリウムの日暮れが,かつて数々の友人と見た星空の記憶を脳裏に甦らせ,私はその記憶にわくわくさせられていたのだと。

 実のところ,プラネタリウムの投影機には,機械としての興味を覚える。カールツァイスの機能美を見るために,明石や名古屋へ行こうとは思う。
 でも,投影された星空や番組にはそれほど心を動かされない。どんなによくできたプラネタリウムであっても,所詮本物の星ではないし,極端に言えば,私は作り物の星を見ることにそれほど意義を見出さない。無限の空間を飛び越えて今届いた光だからこそ,星の光は私の心に何かを語りかけてくれるのだから。2000年前の人も2000年後の人も,幼い頃の私も,未来の老いた私も同じように見上げることができるからこそ,星の光は温かいのだから。

 ましてや番組に至っては,そこで私が新たな情報や知識を得ることはまずないので,尚更だ。知っている人が見ても楽しく作られている番組もあるとは思うが,大抵は知識がない人や子供向け一辺倒で,何だか気怠く感じてしまう。

 最近ホームプラネタリウムも人気のようで,星を通じて知り合った友人の中にはそれを持っている人もけっこういるが,私は自宅の天井や壁に星を真似た光を映し出すことに喜びを感じることはできそうにない。

 「星が好き=プラネタリウムも好き=ホームプラネタリウムにも興味があるに違いない」のような悪意無き発想には疲れるな。