六月の雪

緋色は雪の涙なり

Learn as if you will live forever, Live as if you will die tomorrow.
 
 
  

晴れ

本日の最低気温-0.2℃,最高気温11.0℃。
熊本は-5.1℃,やっぱり東京が暖かく見えてしまいます。

16年経ったのですね。随分昔のことのような気もするし,当時の衝撃の大きさのせいか,少しも色褪せず鮮明に思い出す記憶の数々に,ついこの前のことのようにも思えます。今までここに書いたことあったでしょうか?
私はインフルエンザで前夜は39度の高熱,会社を休む予定だった朝でした。P波が来る直前に目が覚め,「何で目が覚めたのだろう」と思ったら揺れ始めました。P波とS波は殆ど続けてやってきて,その揺れ方で近くの大きな地震だとわかり,すぐにテレビをつけました。
1階だったこともあり自宅の被害はほとんど無く,テレビをつけて凍り付きました。よく知っている,数え切れないくらい通った阪神高速が…。熱の辛さも吹き飛ぶ光景。電話回線は地震のあと1時間は生きていましたが,その後約3日間不通になりました。
非常事態とはいえ,インフルエンザで休むという連絡を職場にしなければなりません。公衆電話を探して近所を彷徨いましたが,電柱という電柱は皆同じ方向に傾き,道路からは破裂した水道管の水が噴水のように上がり,壁にヒビが入った家も。自宅周辺でも震度5以上の揺れだったのだろうと確信しました。震度4でこんなことになりませんから。やっと見つけた公衆電話には,当然のことですが長蛇の列ができていました。みんな自宅の電話が使えないので回線が優先される公衆電話を使うしかなかったのでした。
寒い寒い朝,熱でフラフラしているのに長時間電話の順番を待ちました。前に並んでいた男性は「ハードディスクがクラッシュしたんですか?!」と電話口で悲痛な声。私の職場では実験器具が割れ薬品が床に流れ出し片付けが大変だとのこと。

九州の両親へ電話で無事を伝えることができたのは地震から3日後,病気が治って出勤した京都府の会社からでした。自宅は大阪府京都府より電話の復旧に時間がかかりましたし,東への電話は繋がるのに,神戸を越える西への電話は繋がらなかったのでした。

車通勤をしていましたが,災害のあと長い間,常に国道一号線は大渋滞。救援物資を積んだトラックが西へ向かうのを見ながら走りました。家を失い関西を出て行った知人もあり,神戸の方々はもちろんのこと,周辺の関西地方に住んでいた多くの人が忘れられない別れを経験したと思います。