六月の雪

緋色は雪の涙なり

Learn as if you will live forever, Live as if you will die tomorrow.
 
 
  

セント・エルモの火

 太古。おそらく神話時代の地球。
 「セント・エルモの火」と呼ばれるその炎は,夜になると遠くの山の中腹で,いくつも並んでゆらめいていた。

 揺らめく炎には何かしら言い知れぬ不気味さが漂っており,人々はそれを見ることすら恐れ,夜に炎の山の方角を見ることは忌み嫌われていた。
 その炎を初めて見たとき,私も,全身に戦慄が走るのを感じたものだ。何故なら,私にはわかったのだ。それは呪いの魔法をかけられた人間や動物たちの,変わり果てた姿であることが。彼らの悲しみや恨みの心が炎のように燃えているのだ。そしてさらに恐ろしいことに,彼らは近づく者たちに襲いかかり,自らと同じような炎に変えてしまおうという,執念深い意志を持っている。その強い意志が人々を恐れさせているのだ。

 その「セント・エルモの火」の魔法を解く方法というのが,たった一つだけある。
 炎の正体が判った瞬間,その方法も私の頭の中に閃いた。そうだ,古くから知られているあの方法だ。
 バンパイアの血で作ったチーズを手に入れ,それを炎に食べさせるのだ!

 だが,そんな胸の悪くなるような代物は伝説の中の幻ということになっていた。
 いやいや,実は幻ではないのだ。私はそれを手に入れることが可能かもしれない。なぜって,私にはバンパイアの叔父がいるのだから!

****

 私は,叔父の住む暗く寒い洞窟の城を訪ねた。
 渋い顔の叔父を付け回し,私はくどくどと「セント・エルモの火」の説明をし,チーズを分けて欲しいと頼みこんだ。

 叔父は困り果てていた。
 そのチーズは確かに存在する。バンパイアにとって重要な備蓄品なのだ。だがそれは門外不出の貴重品で,少しでも人間の手に渡すなんて,それが例え姪であったとしてもバンパイアにとっては言語道断の行いだった。
 けれど,夜が明け始めていた。もう眠らなければならない時刻だ。意識が朦朧としている。バンパイアは繊細なのだ。突然の招かれざる客で疲労困憊だ。
 チーズを少しでも手に入れるまでは自分にくっつきまわるつもりらしい姪を,何としても追っ払いたい。さあ,倫理か健康か?
 やがてニワトリの声が聞こえ,ついに彼は考えるのも面倒臭くなり,チーズを少しばかりくれてやって,私を追っ払うことに決心したのだった。


 バンパイアの血で作ったチーズ。どんな不気味なものかと思ったが,それはどこから見ても普通のチーズ。ただの,ばかでかいスライスチーズだった。
 バンパイアの血って,もしかしてミルクなの? 「生血」じゃなくて「生乳」を吸うバンパイア。少しも様にならない。

 だが,兎にも角にも私はまんまと戦利品をせしめたわけで,これから「セント・エルモの火」を救いに行くのだ! まるで勇者ペルセウスになった気分。
 不思議なことに,チーズは「セント・エルモの火」と引きつけ合うのか,火へ向かって飛んで行こうとする。道案内はバッチリだが,危うくチーズを取り逃すところだった。私はどうにかこうにか飛び立つチーズに捉まり,空飛ぶチーズにしがみついての出陣と相成ってしまった。
 チーズはよろよろと,だがそれなりにけっこうなスピードで「セント・エルモの火」の山を目指して飛んで行く…。

****

 一方,「セント・エルモの火」は早くも私の気配に気づいて待ち構えていた。
 到着しようものなら,すぐさま襲いかかって喰ってやろう! 彼らにとって,私は久々の餌食なのだ。

 しかし私はそんなこととはつゆ知らず,チーズさえあれば百人力と,すっかり気楽に構えていた。
 油断大敵,危機一髪。
 到着とほぼ同時,火に飲み込まれる寸前に,私はどうにかこうにかチーズの切れ端を火に投げ込んだ…。

 そこに展開されたるは,この世のものとは思えぬ幻想的な場面。
 火はむさぼるようにチーズを飲み込み,のたうちまわり,その炎の色をオレンジから黄緑に,緑に,青に,紫にと変化させ,さらに幾度も身をくねらせ,反り返り,輝きながら,やがてゆっくりと,一頭の立派な馬の姿へと変わっていったのだ。
 私は息をのんでその場に立ち尽くし,茫然とその様子を眺めていた―。

****

 目覚まし時計のベルが鳴り,いきなり現実の世界へ引き戻された。何てことはない,夢だったのだ。
 私はがっかりした。
 リモコンでテレビのスイッチを入れると近畿地方のニュースをやっている。ありふれた平日の朝。今から会社に行かねばならないのだ。
 …けれど私の脳裏には,さっきの炎がのたうちまわりながら変身していく光景が焼き付いていて,現実とのギャップに放心状態から回復するのにいたく骨が折れた。

 セント・エルモの火! 私はこの単語を知っている。確かに知っている筈だ。何だっただろう?
 直感的に海に関係があるという気がした。不知火のようなものだっけ,いや,違う。
 朝の慌ただしさの中,私はイライラしながら外来語辞典を引いてみたが,見つけ出すことはできなかった。

 結局その日は,会社で仕事をしている最中もセント・エルモの火のことが気にかかり,炎がのたうちまわる光景を思い出し,夢の余韻から覚めやらずに過ごしてしまった。それに何故だかわからないが,夢のファンタスティックな印象が,十年も前に一度読んだきりで,すでに内容も忘れてしまった『オズのオズマ姫』という本のことを思い出させ,どうしても読み返さねばならない気にさせた。

 数日後の夜,野尻抱影『星三百六十五夜』を読もうとページを開いた瞬間だった。突然私はひらめいた。
 カストルポルックス! カストルポルックスだ,セント・エルモの火の正体は! この本の,双子座讃歌のページに書いてあった…。
 嵐の夜,マストの頭に現れる空中放電現象。これが現れると,どんな激しい嵐も鎮められると言われ,昔の船人たちは,この火のことを航海の守護神と仰がれたカストルポルックスの名で呼んだのだ。

 …にわかに彼らふたりは、金じきの翼に虚空を切って姿を現わし、
  たちまち無残なる嵐をやわらげ、白き海づらを鎮まらしむ。
  彼らは吉兆なり、厄除なり。されば船びとらは、ふたりを見るや
  喜び勇み、心痛と労苦とより解放せらる。…

 吉兆で厄除のセント・エルモの火を,人々から恐れられる呪われた火にしてしまうとは,私も罰当たりな夢を見たものだ。

****

 セント・エルモの火に関しては,こんな興味深い話もある。
 中国ではさそり座を「青竜」と呼び,その中でπ星あたりを房宿,アンタレス付近を心宿,μ星周辺を尾宿というが,この房宿には「馬祖」という異名がある。竜を馬の祖先としたのが由来だが,「馬祖」は,他に海の神の名を指すらしい。中国清代の『海上記略』によると,荒天時にマストに現れる放電現象を,中国の船乗りは「馬祖火」と呼び,それが暗いと船はくつがえるのだと信じていた。
 セント・エルモの火は,東洋でも船人らの守りであり,そして,もしかしたら,その名も星からきているかも知れないのだ。

 夢のおかげで,私は「セント・エルモの火」のおさらいができたという訳だった。少し前(1990年当時の)に読んだフランシス・クリック研究によると,夢は記憶の整理のために見るものであって,フロイトの言うような価値はないということである。とすると,「セント・エルモの火」は,忘却の整理棚から落っこちてきてしまったのだろうか。なお,夢の中にバンパイアが出てきたのは,眠る前に『ポーの一族』を読んだことが原因と思われる。
 「セント・エルモの火」の正体が判明した後,私は書店巡りをし『オズのオズマ姫』を探し当てた。それは,魔法にかけられた人間を救う物語だった。確かに,夢と似ていないとは言えない。内容は勿論,そんな本の存在すら忘れていたというのに。人間の記憶の摩訶不思議を感じた夢だった。


(1990年 冬)