たくさんいるジョリードールさん。
着せ替え人形者としては着せ替えできないお人形さんはちょっと飽きてしまう…というのもあるが,違った姿を見たくてたまらなくなる。
でもこういうタイプの人形は元の姿を完全に壊してしまうのは申し訳ない気もする。ということで,プチカスタム。プチというよりプチプチ?
鏡開きしたので,鏡餅の上に乗っていたネズミのフィギュアとお正月用?に召喚した英梨々さん。
こういう天井って心躍るよね!?
光画部的な。
大晦日,2019年お別れの光。
ゆりかもめ竹芝駅だったかなあ? 誰もいない風景が何か Cosy Catastrophe的,終末っぽいと思って撮った。
この写真を見た母曰く「ベリーはまるでお人形さんと可愛さを競っているみたい」。たしかに。
HandMade In Japan Fes にて展示されていたお雛様。
JR新橋駅からゆりかもめへ乗り換えるところで見かける古いビル。
「帝都」とか「ハイヤー」なんて言葉の組み合わせやレトロ感漂うフォントに毎度惚れ惚れしてしまう。
JR御茶ノ水駅の駅中,聖橋口の改札前のキオスクのシャッター。
この小鳥の絵が好きで御茶ノ水駅に降り立つときはいつもこのキオスクを確認する。もちろん店が閉まっている日しか見られないので,小鳥さんに会える機会はそう多くない。
が,ここ数年ずっと工事中だった御茶ノ水駅の余波がこの店にも到達したようで,今年に入って板が張り付けられているのを確認。なくなってしまうのだろうか。工事が終了したら,またこの小鳥さんと会えないだろうか。ちょっと悲しんでいる。
意味も無く部屋の中の人を撮る。
夕刻私のPCモニターの上にやってきて,「ゴハン」だの「ヒマワリ」だの喋り続けるベリーさん。
私は最初「お喋りいっぱいしてご機嫌だね~」と思って聞いていたが,しばらくして勘違いに気づいた。これマジでご飯を請求している…。食べ過ぎ予防のためにベリーのご飯は毎日量って少しずつ分けて与えているのだ。ケージに新しいご飯を入れてあげると一目散に帰って食べていた。
阪神淡路大震災から25年。
ストリートビューでその頃住んでいた枚方のアパートをさがしてみたが,もう違う家が建っていた。
あの朝は地震の直前に目が覚めたが,インフルエンザで39度の熱があって私は機敏に動けなかった。早朝は電話は繋がっていたので,今思えばすぐ実家に電話して無事を知らせるべきだったのだが,体調は悪いしそんな機転も利かなかった。電話はすぐに使えなくなり,インフルエンザで会社を休む連絡にも困って公衆電話に行くと長蛇の列。公衆電話の周辺では破裂した水道管から噴水のように道路に水が溢れていた。高熱なのに1時間も電話の列に並んで気を失いそうになりながら,ようやく会社に電話。何故そんな無理して会社に連絡しなければいけないのか? でも当時はそうしないといけないと思った。実家への連絡は思い付いていなかった。そこで力尽き病院へかけこんだ。
電話は断続的に3日か4日くらい使えたり使えなかったり。神戸と逆方向の名古屋・東京方面とは比較的早く繋がるようになったが,神戸の向こうにある熊本の実家に電話が繋がったのは3日後(当時は平熱になって3日後から出勤なんて世界ではなかった),京都の会社へ出勤してからだった。大阪府より京都府の方が電話の復旧が早かった。親は死ぬほど心配していたようだが,電話が繋がらない状況ではどうしようもない時代だった。
私は子供の頃に頻発していた日向灘沖の地震で震度4は度々経験していたが,阪神淡路大震災の地震はそのどれよりも遙かに大きく感じた。枚方市はたぶん震度5とかそれくらいだったと思うが,まだ今ほど耐震が充実した時代ではなかったので,周囲の家は壁にヒビが入り,電信柱も見事に全部傾いていた。当日私は会社を休んでいたので詳細は知らないが,京都の会社でも薬品が棚から落ちて割れて散乱し片付けがかなり大変だったらしい(化学分析の仕事をしていた)。
その後,福岡県西方沖地震を熊本で経験し,東日本大震災を東京で経験し,熊本地震で実家が半壊した。
地震はもういいよ沢山だよと思うけれど,たぶん死ぬまでにあと数回は大地震に遭うのだろうし,1回くらいは自宅が本格的に被害を受ける目にも遭うのではないかと思う。水とトイレットペーパーと災害用食品の確保だけは,家が如何に狭くともしっかりとしておかなければと思う。ベリーがいては避難所にも行けないので,エアコンが使えないときの防寒も…。