あまり寒くなくて年末感がないのに既に師走は中旬に差し掛かってしまった。
イチョウの落葉
6日 高松
7日 静岡
9日 福井・奈良
10日 熊本・岡山・津
イチョウの黄葉
9日 横浜
10日 徳島
カエデの紅葉
6日 宇都宮
7日 静岡
8日 福岡
9日 松山・熊谷
10日 鹿児島・京都・下関
カエデの落葉
6日 新潟・高松・仙台
10日 津
スミレの開花
9日 沖縄
タンポポの開花
9日 横浜
ツバキの開花
6日 下関
6日の朝。
7日の朝。
8日の朝。
9日の朝。
10日の朝。
昨年夏に今の家に引っ越して来て毎日スカイツリーを見て暮らすようになって,スカイツリーがとても素晴らしいものに思えてきた。以前は単に無骨な馬鹿でかい塔だと思っていたのに? 毎日存在感を感じて眺めるって大きなことだったのだなと。
年賀状が年々苦痛でたまらなくなって,かつては楽しみにしていたのだからと幾ら気持ちを立て直そうとしても,もう感情レベルで年賀状に嫌悪感を抱いてしまっている。感情なのでどうにもならない。いや,感情は制御できるものだが,この件に関しては制御することに意義を感じず制御を放棄している。
メールやSNSメッセージで連絡出来る人には年賀メールに変えていきたいと思ったが,私の世代はSNSはやってないし,メールアドレスもキャリア携帯アドレスからしか受け付けないなんて人が意外と多い。キャリア携帯などとっくの昔に捨て去ってそんなメールアドレスを持っていない私はそういう人にメッセージを入れる方法がない。携帯番号が分かっていたらSMSを入れるくらいだろう。年賀状には家電話しか書いていない人が多く,SMSすら無理。ちなみに私は家電話もとっくの昔に廃止している。
ある人からは「PCをつけないと見られないメールよりいつでも見られる葉書の方が良いし,こちらから出すのはかまわないでしょう?」と言われ,もうどうにもならない断絶を感じた。PCなら朝目覚めた瞬間から電源が入っているし,PCがなくてもメールならスマホで読めるではないか。葉書は探し出さないと見られない。
葉書は収納場所を必要とし,検索もできない。個人情報が書いてあり廃棄するのに処理が面倒。自分が人に出すのはともかく,もらうと重いのだ,様々な意味で。30年くらい年賀状だけのつきあいで,メールアドレスも知らず,近くに引っ越しても会わないような人と年賀状をやりとりする意味が全くないとは言わない。けれど,限りなく意味を見いだすのが難しい気持ちで,年賀状はひたすら憂鬱な習慣になっている。