六月の雪

緋色は雪の涙なり

Learn as if you will live forever, Live as if you will die tomorrow.
 
 
  

異邦人

もう一度読み返そうと思って,長い長い間ずっと本棚の一番目立つ場所に立ててあった『異邦人』。30年ほど前に読んで,その時は理解できず退屈で,読んだことのない人でも誰でも知っている「きょう、ママンが死んだ」しか記憶に残っていなかった。
小学生の頃までは,よく物語を読んでいた。が,そもそも私は文学を理解できるような感性の持ち主ではなかったらしく,中学生以降は自然科学書の方を面白く感じるようになっていた。しかしながら哲学がたんまり詰まっていそうな文学作品に読みふけるようなことにミーハー的憧れを抱いていたため,今度こそ楽しめるかもしれないと期待しつつ数々読んだ。モーパッサンの『女の一生』,スタンダールの『赤と黒』,スタンベックの『怒りの葡萄』,トルストイの『アンナ・カレーニナ』に『復活』に『戦争と平和』,ドストエフスキーの『罪と罰』,ヘンリー・ミラーの『北回帰線』などなど。しかし感性に訴えられることもなく,残ったのはただ「読んだ」という記憶のみ。
年をとれば感性は鈍るものと言われる向きもあるが,私はそうは思わない。若い頃の感性は荒削りで目立ってしまうということだと思う。年と共に感性は滑らかに研ぎ澄まされてゆく。滑らかだから感性は余計な主張をしなくなるが,必要なところへ切り込む強さは時を経て鍛えられている。若い頃理解できなかった文学作品も,少しは退屈せずに読めるようになっているかもしれない。『異邦人』は私の中でその指標になり得る作品だった。
さて,『異邦人』。
アルジェリアの明るい太陽の下,フランスの法の下,ムルソーという一人の男が母を亡くし,愛してはいないが魅力を感じる女と戯れ,友人の事件に巻き込まれ,殺人を犯し,裁かれ,死刑の宣告を受ける。他人事のようにさらりと重要なことが語られる彼の視点は興味深いものだった。
裏表紙に書かれているように,ムルソーは「通常の論理的な一貫性が失われている男」であるのだろうか。私にはムルソーらしい一貫性が保たれていたように思えるが,「通常の」というところが問題なのだろう。
彼は太陽のせいで殺人を犯したかも知れないが,正直で誠実な男だった。殺された相手は凶器を持っており,彼(と彼の友人)を襲った相手でもあり,死刑の宣告は常軌を逸脱したものに見える。彼は極悪人ではないし,常識的な部分も大いに持ち合わせていた。
彼が死刑に処されねばならなかったのは,ただ彼が自分に正直であり,その感性が多くの人の良しとする規範から外れる部分を少しばかり持っていたから。そう,例えば母親の葬儀で涙を流さなかったり,煙草を吸ったり,ミルクコーヒーを飲んだり。そういう部分を憎む人たちがいて,たまたまそこばかりが都合の悪い方向でクローズアップされてしまったから。社会の規範に合わせることを拒んだから。正しく社会の異邦人だったから。裏表紙の言うように「不条理の認識を極度に追求した」ということなのだろうか。
もし私が何か不幸な偶然により犯罪者になったら,同じように日常の軽い一コマ一コマによって人間として生きる価値のない極悪人に仕立てられることが簡単に可能だと思え,空恐ろしい。最後,涙を流して去った司祭より,司祭に対し怒り心頭に発したムルソーの方が遙かに理解できると思った。私がその場面の主人公だったら,やはり司祭に対し激しい怒りを感じただろう。



後書きにあった,カミュが英語版に寄せた自序が興味深かった。

ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。…………生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。…………ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を落とさぬ太陽を愛する人間である。


ところで,私が読んだ『異邦人』は新潮文庫の窪田啓作訳だが,表紙はこのアマゾンの画像とは異なっている。中尾進氏が描く南欧風の風景で,青く澄んだ空の下に立ち並ぶ白壁の家,その家々の間を通る細い路地。私にとって『異邦人』といえばこれなのだが,時代と共に表紙も変わり,それによって微妙にその本に対するイメージも変わりそうではないか?