六月の雪

緋色は雪の涙なり

Learn as if you will live forever, Live as if you will die tomorrow.
 
 
  

「はやぶさ」関連バックナンバー

1998年〜2006年の丸8年間,毎日同じ文字数で書いていた私のウェブログ『ミラからの便り』から,「はやぶさ」に関係したものだけ抜粋してみました。リンクは当時のままなので,切れているかな。あくまで私の回顧のための再掲で,大したことは書いていないし,今更読んでも謙遜抜きで本当につまらないし,畳んでおきます。
2003年05月14日(水) #スカイラブ1号打ち上げの日:1973
 今更だが,小惑星SF36へ飛んでいく宇宙探査機“はやぶさ”ことMUSES-Cの出発であった,先週金曜日の日本のM-Vロケット5号機打ち上げのこと(slashdot)。昨日,これを報じるCNN英語サイトの記事を読んだのだが,不思議なのは,何故日本ではあまりニュースにならないのだろうということ。詳しいことや難しいことはよくわからないけど,他の天体へ行って,その天体の物質を採取して帰って来るんだよ。世界最高の技術レベルを持って初めて実現する,もしかしたら今世紀最初の壮大なプロジェクトなんじゃない? 宇宙研のホームページ内の絵本風 pdf解説 MUSES-C君の冒険日誌がむちゃくちゃ可愛いくて感激した。思わずミネルバちゃんのファンになっちゃった。


2003年11月25日(火) #のぞみちゃん,頑張れ!
 日本が世界をリードする科学技術先進国であり続けることを願う私にとって,トラブルが多い日本の衛星は心配の的だが,火星探査機“のぞみ”の電源故障はかなりショック。宇宙科学研究本部によると,現在“最後の挑戦”の最中らしいが,“のぞみ”が失敗したら“望み”が消えそうだもの,本当に祈るような気持ちだ。日本の5基の気象衛星“ひまわり”の部品の6割以上は米国製,日本の民間企業の衛星は全て米国製らしいが,衛星技術を外国に頼り切っているのはセキュリティ面で不安だし,結局リスクも高まるようだし,独自の技術開発を願いたいものだ。ところで,ミネルバちゃんをのせた“はやぶさ”は,9月12日現在,順調に飛行中とのこと。無事に小惑星にたどり着いてね。


2005年09月16日(金) #はやぶさ君とミネルバちゃん
 9月12日午前10時(JST),無事に小惑星 Itokawa (1998 SF36) へ到着した「はやぶさ」。アポロ計画と聞いてワクワクしていた幼い頃の心はどこへやら,最近ではスペースシャトル打ち上げなどと言われても関心が持てない私だが,この探査機だけはちょっと別格。特に面白くもないジャガイモみたいな Itokawa の写真を感慨深く眺めている。何故「はやぶさ」が特別かというと,星の王子さまに会いに行こうキャンペーンに応募したわけではなく(これには興味がなかった),出発の頃,JAXAのサイトで読んだ『MUSES-C君の冒険日誌』(改訂版『はやぶさ君の冒険日誌』)があまりに楽しかったからだ。いよいよミネルバちゃんの出番。最後まで成功しますように!


2005年11月04日(金) #ミネルバちゃんの日
 直径12cm,高さ10cm,重量592gの,トゲの生えた円筒形。小さな体に沢山の技術とアイディアと希望と期待を乗せて,ミネルバちゃんは,今日,イトカワへ降り立つ。はやぶさが旅立った頃から探査ロボットのミネルバちゃんが活躍するのを楽しみにしてきた私には,今日はちょっと緊張する,そして楽しみな日。ミネルバちゃんは,上空30mではやぶさとお別れし,イトカワの表面を飛び跳ねながら移動。撮影と温度計測を行うそうだ。そんなミネルバちゃんが,もともと,はやぶさの重心を調整するために,設計の終わりになって重りとして作られたロボットだったとは,何がどう転ぶかわからない世界の縮図を見るようだ。ミネルバちゃんの寿命は一日半程度。頑張って!


2005年11月08日(火) #はやぶさはやぶさ
 リュウちゃん*1を撮ろうとしたとたんにドアが閉まり呆然としていると(くだらないことでショックを受けるなって(^^;),近づいてくる下り列車を発見。あの風情は…ブルートレイン? ってことは“はやぶさ”? 案の定,だった。ブルートレインが次々と消えていく中,昔よく乗った寝台特急ヘッドマークを未だ見ることができるのは,幸せなことだ。はやぶさといえば,科学衛星のはやぶさ,そしてミネルバちゃんはどうなっただろう(丁度その頃,はやぶさは航法誤差が許容値を越えたためミネルバ投下を中止したのだった)。科学衛星はやぶさが奮闘している最中に,寝台特急はやぶさと再会できたのが吉兆だといいな。そう思いながら熊本へ向かうはやぶさを見送った。

*1:鹿児島本線長洲駅ホームにある巨大な金魚のオブジェ。はやぶさミネルバを投下する頃,私は佐賀バルーンフェスタへ向かうべく鹿児島本線で上りの列車に乗っていた。